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2017年5月29日 (月)

「共謀罪」に反対したり・・・

行けるときにはせめて、と、今日は議員会館前に行ってきました。

日射しは強かったけれど、風は乾いていて、まぁなかなかの街頭声あげ日より。20170529_5

その帰りに寄った地元の図書館で除籍本のリサイクルやっていました。

除いて目に留まったのが、『されど我ペルーを愛す』。

1997年に起こった、ペルー日本大使公邸人質事件の渦中にあった青木盛久氏大使(当時)と妻直子氏の共著書となっています。

私自身、ペルーやボリビアが好きで何度か行っていたぐらいで関心はもちろんありましたが、それより何より、この事件の顛末で暗澹たる気分になったことを久しぶりに思いだしました。

この事件が「突入」で結末を迎えたとき、体が震えるほど憤りを感じたのでした。

それは、対話が暴力に敗北した瞬間だったから。

ずっと「テロリスト」たちと交渉にあたっていたシプリアニ大司教が泣いていた姿が、ーーそれが放送されていたのかどうか記憶は定かではなく、その後読んだ本や記事から得た情報が私の中で映像として定着した物かもしれないのですが、ーーとにかく、それが忘れられません。

自分の交渉が突入のためのトンネル作りの時間稼ぎにされていたと・・・・・・。

私も、ほんとに悔しかった。

結構身近な人が「本当によかった」と突入による解決を手放しで喜んでいたこともショックでした。

「テロリスト」は全員殺されたのに。

リマ在住の知人に聞きました。

あちらのテレビでは、遺体もなにもモザイク無しでどんどん流していて、「テロリスト」たちの殺害遺体は「フジモリ(当時ペルー大統領)に逆らったらこうなる」とばかりに、凄惨な物だったそうです。

そういう映像をいつも見せつけられている、あの時代のペルーの子ども達を(直訳すれば)「暴力(時代)の子ども」と言うとも聞いた記憶があります。

毎日公邸に運び込まれる人質たちの食料をみて、うちの子に分けてくれと言ってくるセニョーラのことも、どこかで読みました。

「テロ」に勝利したという歓迎と喜びの声が満ちていた。

日本でも「突入」してみたいと思っていそうだと感じる言説があった。

「テロリスト」は絶対悪だから、殺されて当然、という空気が満ちたそれが怖かった。

あれから20年・・・・・・。

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